昭和56年4月20日 朝の御理解 【 末永信太郎 】
第88節 昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりでは ない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして 家を治めよということである。
この88節の内容を、いよいよ分からせてもらい。そして、それを実験実証して行く影で、もう必ず88節のおかげが頂かれるでしょう。いわゆる、広がりに広がるというおかげですね。昨日、林さんが毎日日参されますが。今度の御大祭に初めてご主人が一緒にお参りになったと。いつも、毎朝ここまで自動車で送っておられるんですね。それでも、なかなか、ここ上がってお参りという事が出けなかったんですけども。
今度は夫婦揃うて、御大祭におかげを頂いたんです。まあ、合楽に、まあ、細かに神経を使う方ですけれども。ちょうど下足をあずけさせて頂いたら、下足札が88番であった。いやあ、おかげ頂いたと思うて、ったら、ご主人のが44番じゃった。ああ、これはもう、まあ、言うならば、そのちょうど88番の半分である。まあ、(あんまり良い気持ちをなさらなかった44。)私んと88番じゃった、貴方んとはち言うたら44番じゃった。
だからこれを、結局44番。お祭りが段々頂いてあり、はあ、お祭りの大祭っちゃ有り難いもんじゃあると思うて、まあ、拝んでおられたら、まあ、いよいよ私の話が、を聞かれて行く内に、久富まさき先生の話をね、しました。車が444の4というその番号を見られた時に、本当に自分のお家で良かったと。これが信心のない人んところに行ったら、この車が、まあ、皆に嫌われる車であったかも知れないのに、私の方で頂いてよかった。
お取次ぎを頂いたら豊美先生が、これはいい番号ですねえ、44の4という事は、神様にいよいよよんよんして行けれるという事ですねと、言われて大変有り難かったというね、お話を、まあ、させて頂いたように。それを頂かれてから、その、金光教の信心のね、その頂き方というようなものを、主人が大変感じて。帰りの車の中で、これを倍にすると44じゃけん、お前と同じ事88になるから、これからいっちょ、本気で信心させてもらわんならんという意味の事を、主人が言われたというお届けを昨日なさいました。
のようにね。それには、どうでもおかげを頂かせてもらわねばならん事は、今日の御理解の内容である。ね、鏡を立てて自分を見る、見つめるという事。見ること、見ること、自分を見る事というのは、自分の言うならば在り方というものを、自分の言うなら周辺に起きて来るそのことを鏡とする。親は子の鏡だと、こう言われる。ね、例えば子供が、子供の、まあ、言うても聞かんと言うか。出来があんまり良くないならば、それを自分の鏡として、自分がいよいよ改めて行くような生き方になったら、子供も、親子共々おかげを頂くという意味なんですよ。
鏡を立てるとは、自分の周辺に起きて来る、言うなら一切の成り行きそのものを自分の姿と見たら、悪い顔をする訳にはいきませんよね。例えば先だってから、まあ、嫁さんの悪口じゃないけども、というような事は、結局は上を向いて唾を吐くようなもので。ね、その嫁さんなら嫁さんの仕打ち、在り方を自分の鏡として行ったら、いよいよ自分が清まらなければおられん、改まらなければおられない。そこに、嫁も姑も一緒に助かって行けれる、有り難い道が開けて来るんだというのが、私はこの御理解だと思うですね。
鏡を立てて、人に悪い顔を見せん。まあ、顔を、悪い顔を見せるという事は、上を向いて唾を吐くような事と私は思う。ね、それが自分の姿だと、まっ、頂いて行くような生き方なんです。ところがね、なかなか私どもはこうやって信心させて頂いておりますと、言うなら、信心を目指さなければならんのに、おかげだけを目指しておるといったような場合がございます。そうすると、せっかく自分の姿がそこに鏡に映っておっても、それを見失います。見る事をいたしません。
だから、心がいつまで経っても、言うなら神へ向かわないのです。最近、これは麻生さんのお導きで。もう、信心は長いのですけれども、お商売をしておられるから、お商売の発展繁盛の事、毎月おつきになさる、毎月一回は、ぶら?の支払いの事から目録の事から、もう沢山こう持って見えて、その、只今から集金に行くという時には、伝票みんな持ってみえて、それを御祈念して下さいといったような熱心な信心をなさっておられますけども。どこまでも、その、この、まっ、目録が出来るだけ集金が沢山寄るようにという願いだけなのですね。
そういう信心を、まあ、続けておられたのですけども、最近非常にこう、夜が眠れなくなった。ね、それが、もうとにかく、まあ、様々に迷われて、色んな仏様やら神様やらを拝んどったのを皆一緒にして、ここへ、あの持って見えられて。そして、金光様一本にするといったような信心をされる頃から、そういう体が悪くなった。御兄弟のある中に、ほっぺつ?な信心をなさる方が、その、そういう仏様やら神様を、まあ、お粗末にしたからそういう事になったんだという風に言われて、やっぱ神経を使われるようになり。もう、いよいよ、夜眠られないというな。
病院にも行かれた、これはもう、病院よりも精神科の方が行かんならんちゅうぐらいに悪うなられた。ね。それから、今、麻生さんが毎朝、朝お参りをされますから、一緒に、今朝も参っておられると思いますが、あの、朝参りが出けるようになった。もう、熱心にそれこそあの、お参りが出けるようになった。したら、昨日お参りして見えてから、今朝方、その、月次祭の晩に、もう初めて月次祭のおかげを頂いて。私は思うんですけどもね、一心に参って信心をする。ただ、おかげをおかげで参る人達は、その月次祭だからと言うてお参りしないですね。
もう、これは、もう、お礼のお祭り。特に大祭、昨日なんかは日曜でしたから、大祭にお参りの出けなかった方達がとっても多かったです、続いておりました。ね。それが、ご無礼してから大祭にはお参りが出けなかったからと。あらあ、アンタ参っとらじゃったのと。当然参らなければ、それこそ義理にでも済まんというような人達が皆参ってないんです。もう、ある意味合いでは、合楽は本当に、まあ、ゆとりがあるなと思うです。
もし私が、大祭だから参りなさいと言やあ、必ず参る人達というほどに、おかげを頂いておる人達なんです。けれども、その大祭の本当の意義というものがね、それこそ大祭にも、とにかく、もう銘々の御大祭として、もうそれこそ、御用の面にも信心の上にも、もちろん、全店を、お店を全部休んで従業員まで一緒にする。家族中、親戚にも、でもその、案内を持って行って一緒にお参りをするといったような方達もある。
かと言うと、日頃おかげ頂いとるけん、まあ、お付き合いにでん参らんならんという人もある。または、全然参った事ないけども、そういう熱心な人達に誘われて来るという人達もある。日々、毎朝、朝参りまでしておりながら、ただ、おかげを頂くばっかりの事っちゃから、一日費やさんならん事が惜しい、惜しいわけでもなかろうけれども、あの、平気でお参りが出けないという人もある。昨日はそういう人が多かったです。
本当に信心が分かるという事は、尊い事ですし、そういう形の上にも、あの、おかげを頂かなければならんと思うが。それこそ、18日の月次祭に初めて月次祭。もう、お参りはして来るけれども、月次祭がどういう意味のものか分からなかった。そして、お月次祭でお参りをさせて頂いた、お説教を頂かせて頂いておる内に、私はその日は、お夢を頂かれたという、あの、宮本武蔵のお夢を頂いたという、あの話とね、ま一つしましたでしょう。ほほお、お夢を頂いたっちゃ、そういう中に意味があるんだなと。
私ども、ずっと頂くけども、あれが御理解じゃったかも知れんと思うて、先だってから、これはやっぱ信心しよるから頂くじゃろうと思うようなお夢を頂いたお届けを、昨日なさいました。もう、何日も前に頂いておったんです。ね、それがね、どういうお夢であったかと言うとね。その、こう梯子がずっとある。ところが、もう、こう、何か揺れ動くようにしても、危なくて登られないという。
その梯子のそのところに、あの、花屋さんがある。その花屋さんは何を売ってあるかと言うと、効くの花と、スイートピーという花がありますね。それを、いっぱいこう出して売っておられるというところを頂いた。それで、その自分は、菊、あの、スイートピーを下さいと言うて、あの、買い求めたお夢であったと言うんです。もう、そういう素晴らしいお夢を頂いておって、お届けをしなきゃいけませんねえと言うて、まあ、昨日お届けをさせて頂いたけども。私は、その、こう梯子を上って行くという事は、もう信心も一段一段上がって行くと仰るから、これは信心の事だろうと。
けれども、この信心の道というのは、ちょっと考えると、とてもお金もいりゃ暇もいる。まあ、なかなか、そして昔から言われるように、信心とは普通のモンじゃ出けん。ね、言うなら茨の道を歩かなんように説かれて来ましたから、なかなか出けませんけれども。ね。心に菊の花。合楽のシンボルのように言われる、その心に喜びが段々出けて来ると、この梯子は、もうそれこそ有り難く一段一段上って行けれるのである。ところが、菊の花を買わずに、スイートピーを買った。
私は、そのスイートピーという事は意味が分からなかったんです、実際は。そしたら、また、午後の奉仕の時に、その方から電話がかかって参りましてね。その、眠れなかったのが、今日はおかげで2時間ばっかり眠れた。その眠れた間に、またこういうようなお夢を頂いたというお届けでした。そしたら、そのお夢と続きの御理解で、初めて私はその、スイート―ピーの意味が分かったんです。
そのスイートピーというのは、あれは、やっぱあの、豆の一種ですね。ですから、豆という事は、まめで達者でとこう言う、健康という事なんです。まめで良いですなあという事は、健康で言いいですなあという事です。ですから、その方はね、あの、自分が体が悪いもんだから、その、まめになる事ばっかりを買って行きよるです。だから、なかなか梯子の段が上れない。だから、信心というのは、信心の言うならば修行をさせて頂きゃ頂くほど。ね、有り難くなって来るもんだと。心に光が燈って来るんだと。ね。
だから、ははあ、スイートピーちゅうのは、そういう事だったんですかと言うて、その事をまた、電話で申し上げました事でしたけれどもね。私どもの信心というものが、例えば目の前に鏡を立てて、さあ、この鏡を見れよと言わんばかりに、神様は出して下さるんだけれども、鏡は見らずに、ただ自分の苦しい事、辛い事だけを言うたんでは、信心の梯子が上られない。信心になると、この梯子を有り難く上って行けれるんですけれどもね。言うなら、自分がまめになる事だけを願っておるという事では、やっぱいけませんなあ。
これからは、一つ菊の花の信心。心に菊の花が咲き、こう、誇っておるような。ね。心の状態になれる信心をさせてもらわなければいけませんなと言うて、まあ、お届けさせて頂いた事です。ね。だから、今日のこの88節という信心は、それこそ自分の周辺の、まあ、一切をです。難儀な事から、または困った事から嫌な事から様々ありましょうけれども。それは自分の心の鏡だと思うて。人にどん言われる話じゃない、神様へ向けて、いよいよそこんところを改まって行く。
いよいよ成り行きを尊び、大切にさせて頂くところから、信心の喜びが、合楽的信心の喜び、菊の花が頂けれる。この菊の花が心の中に頂けるようになると、この梯子を上って行く事が楽しみになって来る。いよいよ、広がりに広がる。八の字の、まっ、末広のおかげが頂かれるという事になります。この88節のこの御理解の内容を、いよいよ自分のものにさせて頂く。もう、間違いなく繁盛に繁盛を重ねさせて頂けれるおかげが頂けれる御理解だと思うて、一つこの事の実験実証に移らなきゃならんと思いますね。どうぞ。